川瀬の読書感想文もしくは、自由研究
8月が終わろうとしています。
少年少女たちが夏休みの終わりに愕然としているのかもしれません。
さて、ある殿方様からきいた夏の終わりのお話。
その殿方様は、優秀な学業成績とは裏腹に、
夏休みの宿題をやらずに溜め込んでしまうタイプ。
釣り竿を片手に魚影を見てワクワクしながら、
虫取り網を片手にバッタを追いかけながら、
水色の空の迫力の入道雲を見ながら、
実は残り少なくなっていく夏休みに、
頭の片隅では、ジリジリとした焦りを感じて、
それは日に日に追いやるのが困難な不安に。
1ヶ月分もの日記を書けるのか。
「夏休みの友」は白紙。
自由研究のテーマもノープラン。
彼は、それを思うたびに、
おちんちんが、キューーーッっとなったそうです。
だんだん、おちんちんがキューーーッとなる現象を確かめてみるために、
やっていない夏休みの宿題のことを思い出すようになっていき、、、
ある日。
日記書いてないキューーーッ
「夏休みの友」やっていないキューーーッ
自由研究なにしようキューーーッ
パーーーーーン!
なんと、彼は、達してしまったのです。
以来、彼の夏の風物詩は、脳イキになってしまったのでした!
これって、実は稀有なことではなく、(稀有かもしれませんが)
他にも事例があるようでして、
ユーモアエッセイや小説で活躍された、
中島らもさんも同様の体験をエッセイに書かれておりました。
らもさんの場合は、授業中に回答を指名されて、
その時の緊張や焦りから、達することがたびたびあったのだそうです。
灘中、灘高出身、という極めて優秀な頭脳、
アル中、薬物依存、におちいる繊細さ、
それを作品に昇華するユーモア、
脳イキに達するひと、という感じも納得、という感じでしょうか。
川瀬も、学生の頃、らもさんをよく読んだ時期がありました。
勝手に書評してしまうと、強烈な自意識が印象に残っています。
自分がどう思われているのか、
よく思われたい、
そういうのは普遍的な感情ですが、
それが強烈過ぎて、たまに、漏れてしまっていて、
読んでいて、こっちが恥ずかしい。
しかし、らもさんの傑作群においては、
その自意識を、知性でねじ伏せるような作品になっているのでした。
「今夜すべてのバーで」は優しさ
「ガダラの豚」ではユーモア
「バンド・オブ・ザ・ナイト」では明晰さ
ところで脳イキ。
強い自意識を持ちながら、
はずかしめられ、
それは例えば、
優秀な頭脳を持ちながら、
ピンチにおちいること、
あるいは、
屈強な身体を持ちながら、
いたぶられ、
つまり、自分の存在意義がおびやかされる時、
精神も身体も、緊張の極致にあります。
そのとき、
まあいいか、
しかたない、
それもまたよし、
という受け入れる感覚が、
緊張→弛緩
となって、
オーガズムを得るに至る、、、
のではないかな、などと想像します。
らもさんの小説で言うなら、
どうしようもない、存在の窮地を、
優しさやユーモアで、なんとか受け入れる。
あるいは、
なんとか受け入れて生き延びるために、
優しさやユーモアを獲得した。
そういうことかもしれません。
ところで、らもさんが尊敬し、
この季節、どうしても話題になる
「火垂るの墓」の作者、野坂昭如さんも、
授業中の脳イキを経験していたという話をきいたことがあります。
火垂るの墓の小説は、とても短かった気がするのですが、
書き出しの残酷さが印象的でした。
街の風景を淡々と描写し、
まるで、説明文のように書かれる物と同列に、
兄妹の状況が並べて書かれています。
悲惨さや、悲しさを強調せずに、
目の前にある、風景やゴミと一緒の目線で。
そこでは、感情や自意識が排除されていて、
らもさんとは逆に、
受け入れるための物語ではなく、
受け入れた後から始まっています。
例えるなら、オーガズムの後。
イッた後の孤独が、また連帯感を求めてさまようような切なさ。
なんだか、夏の終わりの切なさと言うには重たいブログ!
まとめ
脳イキは、生存や自分の存在のピンチと、
それを受け入れる時、訪れるのかもしれません。
ちょっと非日常なプレイでドキドキしつつ、
新たな刺激を受け入れてみてください!
脳にせよ、ペニスにせよ、前立腺にせよ、
その先に新しいオーガズムがあるかもしれません!
では!
川瀬出勤日です‼️
お手合わせ👏よろしくお願いします♪( ´▽`)
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